説明責任→答責性

反戦デモからマンション建設反対運動、果てはプロ野球選手会やら日釣振まで、ある種のプロ市民的活動には常に違和感が付きまとってきたが、要するには誰にコストを背負わせるかという問題について、彼らが考えてる形跡がまるで見られないところに問題がある。しかも最終的にコストを背負う立場にいる人々は、大抵が何らかの理由で団結しない、あるいはできない。というよりも、コストを背負うのがいわゆる「普通の人」である場合がほとんどなので、団結しようがないというか、ネット上で吠えるような草の根的な活動に負うよりしかたがない。

加えてこのような集団は政治家とも異なり、コストを背負う人々に対してアカウンタビリティを全く持たないため、「普通の人」からのチェックが効かないのがタチが悪い。そのために、既得権となった自らの権利を擁護し、増幅することが自己目的となって(これは組織の悪弊でもある)、どんどん社会の常識というか良識から乖離していく。

まあ、マンションだとかバス釣りとか、広くコンセンサスの取れていないレベルでの活動なら「胡散臭い」のひとことで片付きそうなものだが、結局選手会には国民全体で騙されていたという認識でいいんだよね?